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新必殺仕置人第8話「裏切無用」

「裏切無用」ってさー。。。 主水が裏切りをやったという疑いで、鉄や松たちから洒落にならないくらいズタボロにされて、そのあと、肩なんか外された状態で、「。。。俺も、行くぞ。。。これは、仕事だ。。。」とか出てくんだけどさあ。。。のそのそビッコ引き引きって感じで歩く主水の横に鉄が来て、「痛かったかい、ごめんよー」とか言いながら、さっき自分が外した肩を入れ直してやる。そのあと、主水に肩を貸してやるんだけどさあ。。。
 このとき、主水、自分から、鉄が肩を貸してくれるのを見越したみたいに、腕を持ち上げていってるんだよねー。。。

 底からの友情っていうか、信頼がこの2人にだけはあったんだよな。。。って思うと、切なくなるんだ。。。




 本当に見所満載な回。
 別仕置人の奇怪な仕置技は見られるわ、虎の元締によるホームラン仕置は見られるわ、しかもそれは直接のぶんなぐりではなくてとんできた硬球をピッチャー返ししてのものだわ、仕置人チーム内の緊密な仲間意識とそれ故の軋轢はあるわ、鉄と主水の涙ながらの対決はあるわ、そこから見えてくる底深い友愛はあるわ、本当に濃密な。。。

 新仕置人チームの濃いキャラクターたちの中で、唯一今ひとつ薄型だったおていが、最終回以外で最もインパクトあったのもこの回かもしれないし。
 エンタテイメントとしての面白さと、キャラクターのドラマと、ここまで解け合ってくれている回もそうはない。

 鉄の仕置シーンの謎のメイクなど、?というところも幾つかないではないけれど、このパワフルさがやはり他のシリーズを凌駕する新仕置人の魅力だろう。
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荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」から 6

 それまでも、バランスのよかった第2部に比べて、第3部はギャグに傾きすぎじゃないか、と思っていましたが、ロマンティック・ホラーとしてのJoJoはこれで死んだのだ……という意味のことまで考えたのですから、実際相当のショックを受けたのです。
 おわりだ、おわりだ……という感じで、しばらく呆然と過ごしていたはずです。

 次の週になってみると、同じ「ビチグソがっ!」でも絵柄の濃厚さが全く変わり、もはやリサリサ風でも何でもなくなってはいたものの、マライアはワイルドパワフルウーマンとして描かれ直し、さらにジョジョの「相手が勝ち誇ったとき、そいつはすでに敗北している」が久々にそれはそれは鮮やかに決まっていたため(「これほど頼んでも?」「しつこいね、馬鹿」「それならあんたの負けだ、お若いレディ」のくだりは、何度読み返しても「やたっ!」てな感じです)、その終末気分は1週間で消失してしまうのですが、とにかく一時的にせよ、JoJoのそうした――衝撃的な「変容」があったことは確かです。

 愛読者やファンのどれほどが、ギャグ的な要素を喜んでいるかはわかりませんが、その後も第3部においてはついにホル・ホースにまでこの諸星あたる現象が発生し、哀れホル・ホースは初登場時のインパクトはどこへやら、三文キャラの如くに消え去り二度と復活はあり得ませんでした。
 第4部においても、最も如実な虹村億泰の変化にも見られるように、ギャグ的要素がかなり振り分けられていますが、第5部になると、ナランチャ、ミスタの役割もギャグメーカーではなくコミックリリーフ程度にとどめられており、サスペンスフルな(ロマンティック・ホラーかというと、ちょっと違うような気はしますが)ストーリー展開となっています。

 いずれにせよ、これまでの「変容」は、作者の試行錯誤、あるいは「ライブ感覚」の中から選び出され、試みられてきたものでしょう。「スタンドの像」の取捨は、その中で行き着いた一例なわけです。とりあえず作者の「試行」は「人間」に戻ることを選択した、と考えさせてもらっていいのではという気がします。つまりそれがスタンドの像よりも本体の方が綿密に描かれ、スタンド自体は「技」「武器」程度の役割に押さえられている、という今の姿に照応しているのだ、という気がするわけです。
 (主人公側のスタンド達はさすがにしっかり描き込まれているのは、それはやはり主人公側、レギュラー・メンバーであり、どんなにスタンドについて描き込んでも、それでもまだ本体達についてもそれを上回って描き込める「ゆとり」があるはずだからでしょう。)

 今後まだ、いかなる「変容」を「ジョジョ」が遂げていくかは全く予想できませんが、作者自身が、「JoJoとはこういうものだ」とか「スタンドはこう描かなければ」とかいった、「無用な」限界を自らに設定しない限り、これからも次々と成長進化していってくれる作品なのだと思います。
 そして「スティール・ボール・ラン」現在の、「スタンドの像さえ不要に思われるほどの濃密な画面とストーリー」をも超えて、この先JoJoはどういう道を選択して進むのか――。 

荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」から 5

 第4部までにもこういったタイプの敵はずらずらいたのは確かですが、登場してくる敵の全員が「そう」(繰り返しますが、遠隔操作型は全く別になります)というのは、これはJoJoの新しい方向性を指し示していたと言ってもいいのではないでしょうか。
 これまでにも何度か――例えば第3部においてもすでに、9柱神の登場前と登場後とでは「本体」の描かれ方が変わり、「スタンドが戦う」というより「本体が(スタンドを使って)戦う」ことが多くなった、のように作者の試行錯誤がほの見えたことはありました。いよいよこの第5部においてははっきりと、「スタンドが戦う」よりも「人間が」戦うのだ、ということが打ち出されているということではないでしょうか。

 もともとJoJoのテーマは「石仮面の吸血鬼」=「人間を超えた超能力を持ったもの」に、「人間が」立ち向かう「人間讃歌」というものでした。「スタンド」の戦いは確かに魅力的ですが、行き過ぎると人間不在のただのアクションマンガに堕してしまう危険性のあることを、作者は敏感に感じ取っていたのではありますまいか。

 いや、もちろん、「スタンドとスタンドとが戦うアクションストーリー」だと割り切るなら、作者はその上で十分躍動感とインパクトを持つマンガを描ききる才を持った人のはずです。しかし、この「ジョジョの奇妙な冒険」の流れは、試行錯誤の連続でした。特に第3部以降は、どう描けば面白いかを、常に探し求めながら描いているように感じられました。その上で、現在のあり方をとりあえず今は選択している――それが第5部のGIOGIOだとすれば、「それが最も面白い道だ」との作者の選択眼が働いたと見るべきだという気もします。JoJoとは「こういうマンガ」だから、「こういうふうに描かなければならない」という制約・限界を作者は自らに課してはいないと思われます。それが時には、読者にとっては「えっ?」と思わせる方向へ進むことがあってもです。

 白状しましょう。長い連載期間の中で、僕がたった1度だけ、「もうJoJoもオシマイだな……」と思ったことがあります。それは第3部、バステト女神のマライアの登場しての4回目のときです。ジョセフとアブドゥルがバステト女神の磁力の餌食となり、追いつめられていくギャグタッチのエピソードで、第3部途中からギャグ場面コメディ場面が目立ち始めたJoJoの中でも、ジョセフ・ジョースターファンがが悲しみの涙をぽろぽろこぼすような場面の連続するエピソードでした(最終パートまでは!)。

 もっと緊迫感溢れるストーリーを僕はJoJoには求めたいんだけどな……ギャグをやりたくなったんなら、他の作品でやってくれないかな……などと思いながら、ジョジョとアブドゥルの珍騒動を読んでいったのですが、その回の最終シーンでは、アブドゥルの機転でマライアの攻撃をからくもかわした、というところで――とんでもない画面が待っていました。
 それまでは、リサリサ風の謎めいた美人の敵、という感じで描かれていたマライアが、ジョジョとアブドゥルの無事を知った瞬間、「このビチグゾがーっ!」とわめき、ギャグマンガそのままのタッチで鼻水まで垂らした形相のドアップで終わっていたのです。
 唖然としました。荒木飛呂彦が壊れた、と正直本気で思いました。とうとうJoJoにやる気をなくしたのかとかまで思いました。

荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」から 4

スタンドのビジョン同士の戦いは、生身でのアクションに比べて迫真感で劣る、と作者は考えていたはずで、だからこそ、スタンドが傷つくと本体も傷つく、という設定にしたのに違いありません。しかし、それでもまだ、インパクトの作家としては今ひとつ足りなかったのではないでしょうか。
 「ヘブンズ・ドアー!」と岸辺露伴が叫ぶだけで相手の顔面がパカッと割れる、あの画面の異様なインパクトは、スタンドのビジョンを介在させないが故に、なおさら高まっていたはずです。

 さて、そうして続く第5部ですが、この第5部のスタンド達には、ほとんど一様のようにある共通点が見出せます。
 スタンドの像が、スター・プラチナその他のような「戦闘するための戦士」としてではなく、あくまでスタンド使い本体の「技」「武器」のようにしてのみ登場している、という点です。
 但しこれは、ブラック・サバスやベイビィ・フェイスのように本体から遠く離れて活動するタイプのスタンドの場合は、当然別枠扱いとなります。また、フーゴのパープル・ヘイズは、あのときああいう出方しかしていないので何とも言えません。

 ゴールド・エクスペリエンスの場合、肉弾戦だとあんまり強くないので、専ら「物を生き物に変える」「生き物の『時』を混乱させる」といった能力の使い方となっており、描かれ方としてゴールド・エクスペリエンスが画面上存在しないのにいつの間にか何か物体が生き物に変わっていてそれがトリックとなって逆転を果たす……というケースがよく見られます。
 スティッキィ・フィンガーズを含め、「敵」として登場したものたちを見ていくと、スタンドのビジョンが直接戦う「戦士」だったということが実に存在せず、必ず本体がスタンドを「技」「武器」として使いこなしている、という状態です。

 さすがに味方側ではいささか事情が異なります。アバッキオ、ナランチャ、ミスタのスタンド達は、いずれもビジョンなしには考えられない存在感です。それでも、ハイエロファントやチャリオッツなどのように、スタンドがまるで本体と同一存在として戦っているという(例・ラヴァーズ戦。他にも特にハイエロファントはしょっちゅう花京院そのものとして「ぼくは」とよく喋った)ことは決してない。

 まだ味方側については、「スタンドが(不可解な超能力を持っているのではなく)変身したり砲撃したり弾丸を操作したりウィルスを放出したりして直接画面で見える形で活躍する」ので、ビジョンの存在意義は大きいのですが、敵側は最初の敵として登場したブチャラティのフィンガーズを含め、「目には見えないが実はスタンドというものがいてスプーンを曲げている」のではなく、「スタンドが念じると(あるいはぶん殴ったり切りつけたりすると)不思議な現象が起こる」という、「超能力を持ったスタンド」=「別にスタンドの像がなくても困らない」タイプに占められているのです。

荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」から 3

 ビジョンに「意味がない」(ある意味ではすごくあったのですが)スタンドの最たるものとして登場したのが、「Hail 2 you!」の「審判」のスタンドでした。
 このスタンドは少なくとも画面上ただ「いる」だけで、あるいは「唱える」(!)だけで、死者を甦らせる、あるいは土を使って泥人形を作っている(ダイレンジャーのゴーマだね、こりゃ)ことのできるスタンドです。
 画面上、ジャッジメントがせっせと土をこねて泥人形を作っている姿は見られませんので(笑)、ここにおいて結局、「念じただけでスプーンが曲がるなんて、なんだかずるい」ので「スタンドというものが実はやっているんだよ」としていたスタンド・システムは崩れ、「スタンドが念じると何か生じる」ことがアリ、になったわけです。

 これは決して責め、糾弾しようとしているのではありません。むしろ、最初の制約を外れることでスタンド世界が豊穣になったのだと思います。
 ただ、この瞬間、「だったらスタンドの像なんてなくてもいいんじゃないか?」という考え方も出てくるわけです。

 その結果――、ンドゥール、オインゴ&ボインゴ、マライア、ペットショップ……などのように、スタンドのビジョンの存在しない、あるいは存在してもほとんどそれ自体が戦うことはないものが輩出し始め(というわけで、アトゥム神のときなど、「おい、こいつスタンドを出したぞ!」とスタンドのビジョンが出てきたときにジョジョ一行からびっくりされる始末です)、まさにスタンド使い本体が、超能力を持った戦士であるかのような画面構成になってきたのです。
 (ンドゥールについては、あの「水」がスタンドなのでしょうが、何しろ「あれ」なので、スタンドが戦っているというよりは、ンドゥールが単にあれを武器として使っているという感じです)

 さて、その後第4部に入ると、少し初心に返った感じで、クレイジー・ダイヤモンド、アクア・ネックレス、ザ・ハンド、バッド・カンパニー、レッドホット・チリペッパー(こいつは唯一、スタンドはスタンドでしか倒せないはずなのに、海に落ちて塩水のためにボロボロになるという、スタンドにあるまじき醜態を見せています。ということは、きっと電気と一体化して……?……いたんでしょう……)……と、魅力的なビジョンを持つスタンドが復活してきます。
 しかし、依然、ラブ・デラックスやヘブンズ・ドアー、ジャンケン小僧のほっぺたの穴(笑)など、ビジョンがなくていい、いやない方がインパクトが強まるというタイプのスタンドも存在しています。特にラブ・デラックスなんて、あたしゃこの女カーズの一族かと思いましたぜ。

 甚だしいのは、例の「宇宙人」で、こいつはスタンドが全然見えないらしいので、たぶんスタンド使いではなく、きっとほんとに宇宙人なんでしょう(笑)。
 体の変形度の凄まじさからいって、宇宙に飛んでいったカーズの子孫か何かなのかもしれません(笑)。「カーズは二度と地球には戻れなかった」と、「地球には」と他との区別を示す副助詞の「は」が使われているので、おそらくカーズは「別の星には」行けたわけでしょう。そこで仲間を増やし、復讐のため、ミキタカくんを送り込んできた――やめよう、こんなこと(笑)。

荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」から 2

(承前)
 これはたぶん、作者としてはジョセフには余分な新能力を持たせたくなかったというのが関係しているのではないかと思います。
 つまり、ジョセフには「波紋」という超能力がすでにあり、それは前作までで「ジョセフ・ジョースターは波紋で戦う」ということが読者にもしっかり脳味噌にしまい込まれている。あえて「余分」な能力を持たせるのはイメージを壊してマイナスとなる、と考えたのではないかということです。
 その結果、いささか曖昧な形のスタンドとなってしまった。
 (結局は、ジョセフはその後「ハーミット・パープルで戦う」イメージの方が逆に定着し、「波紋マスター・ジョジョ」ではなくなっていってしまうのですが)

 続くハイエロファントは「エメラルド・スプラッシュ」も念力の映像化の一種と捉えれば、元々の「超能力の具体的映像化」だと思ってよいでしょう。
 (因みに、一番最初の「絵でジョジョの足を」「ハイエロファントの像は見えないのにジョジョの足が傷つけられたのは何故」というのは、先に書いた「スタンドのビジョンはあえて描かないで迫力を出す」エフェクトだったと考えられるのではないでしょうか。承太郎に見えなかったのは、例えばチャリオッツが一度アブドゥルにやられたあと、ポルナレフを空中に持ち上げていたとき「見えなかった」、そしてポルナレフに「心の目をしっかり開けてみて見ろ」と言われ、初めて鎧を脱いだシルバー・チャリオッツを「見る」ことができた、という場面がありますから、スタンドはスタンド使いでも「いつでも見えるわけではない」と考えていいと思われます。ジョルノが、ベイピー・フェイスとの戦いの中で、「攻撃されているとき見えないなんてあり得ない!」と言っていますが、ジョルノは実はスタンドについてそんなこと断言できるほど詳しくはないはずなので(笑)却下いたします(笑)。つまり、「見よう」という意識が希薄だと「見えない」「ときもある」のでしょう)

 「タワー・オブ・グレイ」も直接攻撃型スタンド、「チャリオッツ」もそう、「ダーク・ブルー・ムーン」もそうですね。「ストレングス」も実はそう、「デビル」は人形にとりつく(これって、一時的に一体化したってことなんでしょうか。自在に一体化したり分離したりできるスタンドだったのか。便利だ!)という形で、カミソリという物質でスタンドを切る、という芸当を見せましたが、これも直接的攻撃。

 スタンドが「超能力」を持っており、不可解な攻撃を仕掛けた最初というのは「吊られた男」ハングドマンでしょうか。もっともこれも、「原理はよくわからんが、奴は光のスタンドで……」と、その超能力について説明らしきものをつけようとしていることが窺えます。

 その後しばらく、「霧状のスタンド」だの「史上最弱のスタンド」だの「おひさま」(笑)だの、変なスタンドは出てきましたが、ビジョンからでは納得(あるいは把握)できないスタンドはいませんでした。

荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」から 1

 思ったのが、スタンドのビジョンの必要性についてです。いや、要らないと言っているのではありません。ないといろいろうれしくないこともありまして(笑)。
 でも例えば、ラブ・デラックスのときの迫力は、「余分な」ビジョンがなかったことも一つ関係しているのではないかと思ったりします。

 あとになればなるほど特に、スタンドのビジョン「なし」で効果を上げている場面もよく見かけますね。第5部での、ジョルノの手の上でボタンが「眼」になっていくのも、ゴールド・エクスペリエンスがそのボタンを殴っている絵などが描かれていないのがかえって効果的だったし、ブチャラティの戦いの中で、スティッキィ・フィンガーズが画面になく、ブチャラティ自身の「力」でジッパーが生まれているように見える画面も迫真的です。
 スター・プラチナやチャリオッツのように、紛れもなくスタンド自体が、いや、スタンドのビジョン自体が「拳」や「剣」を使って戦うときは別として、スタンドが「超能力」を持っており、別に何かを殴ったりせずともそれが発現できるなら、むしろスタンドのビジョンは描かれない方が迫力が増すことの方が多いのではないでしょうか。

 そもそも荒木先生の最初の着眼点というのは、
 「超能力ってずるい」
 ということだったと読んだような記憶があります。つまり、
 「念じるとスプーンが曲がる」
 というのはなんだかずるい。
 「実は目には見えないがスタンドというものがあって、それがスプーンを『えい!』と曲げたりしているのだ」とすれば、なるほど念力というのはこういうことだったのかわかってずるくない、と。

 それであの「スタンドのビジョン」というのが出てきたわけなのでしょう。確かに、スター・プラチナなんかは、念力の具体的な映像化です。次に出てきたマジシャンズ・レッドも、超能力による発火現象を映像で見せたという形になっている。

 これがジョセフ・ジョースターのハーミットになると、少し曖昧になっていて、つまりハーミットが「どういう仕組みで念写というのを行っているのか」、実は映像ではわからないわけです。ここではすでに、ハーミットが「念写という超能力を持っている」形になっていて、「念じるとスプーンが曲がる」というのがずるいならこれもずるいんじゃないか、というレベルになってしまっています。
(つづく)

新必殺仕置人第7話「貸借無用」

 これも比較的印象の薄い一編。
 とにかく主水が風邪を引いて、やたら咳クシャミを連発しており、アジトでもあまりそれが酷いので鉄から「おまえはもう帰れ」と言い渡されてしまう始末。
 ただ、ラスト、唐突なように「裏」が明かされる。そしてそのまま終わってしまうのだ。これなど、勧善懲悪の後期仕事人では絶対にあり得ないことで。
 エンタテイメントとしてもパワフルだった新仕置人でも、「暴徒無用」ほどではないにしろ、ちと後味の悪さは残るかもしれない。


スタートレック・ヴォイジャー「道は星雲の彼方へ」

 最終回は、TNG同様に前後編で。
 しかし、第一話の「法廷」での決着だったTNGと比べても、ヴォイジャーでは旅そのものへの終焉を描かなければならない。そして、前編冒頭で映し出されたものは……

 このヴォイジャーのシリーズで、必ずしも艦長のキャスリン・ジェインウェイは判断や行動が『正しい』と言い切れない場合も多かった。咄嗟の直感や感情論での言動もあり、その点で例えばピカードなどとは信頼度等で及ぶものではなかった。
 だが、ジェインウェイ以外のどの指揮官が、セブン・オブ・ナインという存在を産み出せただろう。おそらく、カークもピカードもシスコも、仮にボーグの集合体からセブン・オブ・ナインを切り離すところまでやったとしても、そのあとクルーとして迎え入れ、堅い絆を作り出すなど……
 そして確かにセブンも、ジェインウェイに「なつく」感じの感情をすら持っていたのだ。

 いくつもの「可能性の未来」が、すでに旅の途上で幾例も出現していた。この「最終回」も、いわばそのうちの最新バージョンの一つに過ぎないとも言える。ケスが見た未来、キムやチャコティが過ごした未来、それら全ての選択肢を、しかし、ジェインウェイは自らの独断で一つに絞り込みにかかった。いつものような、独断で……

 ケスや、ドクターや、セブン・オブ・ナインや――彼ら魅力的なキャラクターの中で、ジェインウェイは独り主人公らしく存在してはいなかった。セブンに人間の尊厳を持てと説きながらドクターをレプリケーターと同じに扱い、偽善や矛盾や一方的な独善を山のように持っていた。
 この最終回は、しかし、ジェインウェイのための最終回だった。独り主人公ジェインウェイのためだけの……

 ヴォイジャーは地球に戻り、ジェインウェイは提督となった。もう冒険の日々は戻らない。
 しかし、もし、彼女のクルー達に何かが……そのときはきっとジェインウェイはまた勝手に動き出すのだろう。その意味では、ジェインウェイはずいぶんとカークに近かったんだろうなと思いもするのだ。


新必殺仕置人第6話「偽善無用」

 1話から5話まで、4話という異色作を挟みながらかなり面白く進んできた新仕置人だが、この第6話については個人的にはあまり楽しめなかった。これはひとえに、ゲストのおちかを演じた清川虹子の演技が個人的に好きになれなかったからだろう。いかにもという感じでもったいぶって思えてしまうのだ。気取って憎々しく演じすぎている気がする。
 この辺、仕事人後期でのなんでも屋の加代の演技にもわざとらしすぎを感じて、どうもなじめないのと近いのかもしれない。
 それにしても巳代松の研究熱心は楽しい(笑)。


スタートレック・ヴォイジャー「夢見るホログラム」

ホログラム・ドクター(名前はまだない)の創っているホロノベルを読む(というか実体感する)クルーたち。ドクターとしては、自分の経験を多少カリカチュアライズして、テーマ性を持ったエンタテイメントにしたくらいに思っていたが、モデルであるクルーたちには不快と困惑が大きい。艦長をはじめとする人間のクルーたちに侮蔑され、虐げられるのが、主人公のホログラム・ドクターなのだ。これが出版されれば、宇宙規模でヴォイジャーへの誤解を招きかねないノベルが読まれることになる。

 パリスは言う。「俺の悪名が宇宙域全体に広まろうと、そんなことは気にしやしない。ただ、あんたの目に俺があんなふうに映っていたのかと思うと、残念だよ!」

 そして、パリスの改変したホロノベルを自ら体験することで、ドクターは考えを改める。改訂版に書き改めよう……

 そのあとの紛糾自体は、かつてピカード率いるエンタープライズでデータを巡って繰り広げられた「彼(或いは、この「物」)に人権などあるのか?」の繰り返しだ。

 だが、一つ違うところがあった。データは、ほとんど唯一無二の存在だったが、ドクターは違う。彼は、「緊急用医療ホログラム マーク・ワン」のうちの一体でしかなく、逆に言えば、ドクターの同種の仲間は大勢いる。とても大勢いる。そして、医者として産まれた彼らは、今や佐渡の流人さながら、ただ来る日も来る日も穴掘りを、穴掘りのみをやらされているのだ。
 ドクターの夢は、仲間たちに自分と同じような自由と権利が与えられるようにと、そのためにこそ、このホロノベルも書いたのだったから……

 ラストシーンの、マーク・ワン達の姿は心に焼きつく。ホログラムに魂はある。それがどんなものなのか、どうして産まれたのか、わからないが――。

新必殺仕置人第5話「王手無用」

前話から変わって一気に通常編(笑)になり、いかにも新仕置人の一編らしいエンタテイメントな回。新仕置人チームがそれぞれ見せ場を持って痛快に仕置を果たしていくエピソードなので、気楽に楽しめる。

 一番笑えるのはやはりエンディング。主水と鉄、2人で鍋をつつきながらの仲良し加減。仕置料の配分だの仕置の仕方など、悪罵のやり取りをしながらもやはり仲がいいのだ。
 主水が鉄から仕置料を減額され、言われることがいい。「おめえは障子の陰から刀突き出しただけじゃねえか、あんなことはバカでもできる」。後期仕事人以降の主水はいつもそんなことばかりしている(笑)。そうか、後期仕事人の主水はそうか(笑)。

 さらに「うまかったー、今日のフグ。勘定頼む」とか宣って鉄はさっさと行ってしまうのだが、これは旧必殺仕置人第2話でのやり返しか。このときは鉄やおきんと鍋をつついていた主水がさっさと出て行ってしまい、「おいっ、勘定ッ!」と呼びとめようとした鉄に、早速のように勘定書を持って店主が近づき、その金額を見た鉄が仰天する。どうしたんだい、と見に行ったおきんらも呆然とする。あまりにも高いのだ。この回での仕置相手の阿漕な買い占めで、豆が高騰し、おかげで湯豆腐も。。。
 いきなり、再び席に着き、何も言わず猛然と豆腐を食い始める鉄。言葉もないおきんらも、同じように、もうやけくそのように箸を。。。

 この新仕置人では、鉄に置き去りにされた主水がやれやれというふうに鍋を探ると、「なんだこりゃ、菜っ葉しかねえじゃねえか!」となり、アンコウにするんだった……とがっくりとする。こういう仕置人チーム内の、仕置屋や仕業人では存在しえなかった「仲の良さ」が、なんとも楽しく見てしまえるのだ。

平井和正「狼男だよ」

おれの名は犬神明、一匹狼のルポ・ライターだ。これはたとえじゃない、おれは本当の狼、すなわち人狼なのだ!常人にはない特異な能力を持つおれは、月齢十五日、つまり満月が近づくにつれ、驚異の生命力と体力を発揮するのだ。そのおれが深夜のドライブ中、全身の血を抜かれた美女の死体を積んだ車に追突するという事件に巻き込まれてしまった。これは現代に甦った吸血鬼の仕業なのか?アダルト・ウルフガイシリーズ第一弾。

このシリーズを読もうと思ったきっかけは、何か他の本の巻末に載っていた紹介文から。
といっても、ちゃんとした書評なり、あとがき解説なりの中の文章ではなかった。今どうなっているか知らないのだが、当時(今を去ること三十年ほど前)ハヤカワSF文庫の巻末に他の作品たちのリストが数行の粗筋紹介付きで載っていたのだ。現在だと電撃文庫とかが、そんな感じじゃなかったか。

その紹介文は、この「狼男だよ」自体のものではなかった。シリーズのうちの1冊、「リオの狼男」の紹介文だった。

――おれは知らなかったのだ。おれの狼人間の力が、輸血によって他の人間に転移するとは。
 おれと光夫、2人の狼人間の対決は、避けられない運命だった!


みたいな煽り文句で、「へえー、面白そう」と思った。当時小学生で、2人の狼人間同士の対決というのが、仮面ライダー1号VS仮面ライダー2号みたいな感じでワクワクしたのだ。

そしてたぶん中学にあがって書店の棚を眺めていたときに、実物に遭遇した。おお、これが、という感じで購入しようとしたのだが、何しろ「ウルフガイ 別巻」と書いてある。つまり、「リオの狼男」はシリーズの第3冊なのだ。いきなり3冊目というのは拙いだろう、第1巻くらいは読んでおかなくては、と思い探してみると、「ウルフガイ 別巻1」もあった。それが、「狼男だよ」である。

じゃあ、別巻2は読まなくていいと思ったのかとか、別巻ではない「本巻」はどうしたのかとかあるが、その頃までに経験していたシリーズ作品というのは、第1巻たる「登場編」で詳しく登場人物の背景等が説明されて、あとの巻はどれから読んでも別に構わない感じだったので、あまり気にしなかったのだ。別巻表記については、別巻は別巻で本巻とは独立していると思ったのかもしれない。これはよくおぼえていないのだ。

そして、「狼男だよ」「リオの狼男」の2冊をまず購入したのだと思う。

「リオの狼男」の圧倒的な面白さについてはまたそのうち書くが、まず先に読んだ「狼男だよ」、これがやはり面白かった。
「狼男だよ」の面白さは、語り口の面白さだ。そもそも「狼男だよ」というタイトルがすごくないかと思うのだが、一人称「おれ」で語られる軽口の連続掃射が笑えた。どんな酷い目にあっても冗談にしてしまうタフで不死身の狼男、犬神明。自分のことを表現する際の「狼男に手を出しちゃいけない。貴重な天然記念物だ」とか「スーパーウルフガイ。ジャンジャジャーン」のような、それまで読んだことのないハチャハチャぶりが楽しかった。

全編に配置してあるエロティックな場面等も、中学生になりたての男子には物語の面白さとは全く別に魅力的だったわけで、これはほとんど性教育だったのではないかというくらいだ。

実際、このアダルト・ウルフガイ・シリーズにおいて、最初の「狼男だよ」は独立して笑えるアクション・パロディ小説の趣が強い。別巻2たる「狼よ、故郷を見よ」をとばして、待望の「リオの狼男」を読み始めたときの「え?」という違和感は大きかった。主人公犬神明のキャラクターが一変して見えていたからだ。

このアダルト・ウルフガイ・シリーズが、主人公の変遷そのものが物語全体のテーマと密着している成り立ちを持っているとは、本当に最後の最後で解ってきたことだった。

結局、「狼よ、故郷を見よ」以外のものも手に入らなかったり何だりで、かなり順番を無視してシリーズを読み通すことになってしまい、あとになってから、このシリーズは順番通りに読みたかったなと思いもしたが、順番通りでなくても十二分に楽しめ、のめり込めたのも確かだった。

シリーズを読み通したあとになると、「狼男だよ」は主人公アダルト犬神明の魅力を伝えるには物足りない作品と言えるかもしれない。けれど、間違いなく面白かった。シリーズがどうのとか平井和正作品がどうのとかをさておいて、何度も読み返させてもらった。

もう絶版のために入手するのは難しいのだが、ハヤカワ文庫版では2つもの「あとがき」が付いていて、特に「第二のあとがき」がなんだかやたら面白かったのだ。ハヤカワ文庫での平井和正のあとがきはとにかく面白く、それもまたシリーズや平井和正作品の魅力のパーツとなっていたのは確かだろう。

新しい版元から文庫が上梓される度、ハヤカワ文庫版のあとがきも再録してほしいと常に思い続けている。

平井和正「アンドロイドお雪」

 幻想剤密売で捕まった老人が、独身の貧乏刑事野坂に贈った遺産。それは白い滑らかな肌を持ち、人間の娘と少しも変わらない、時価数百万ドルのアンドロイド“お雪”だった。
 かいがいしく身のまわりの世話をするお雪は、家政婦として申し分ない。だが彼女が来てから、野坂の身辺にはトラブルが多発し、なぜか彼自身も次第に精彩を失っていった……。
 発達しすぎた科学技術の落とし子、お雪が巻き起こす怪事件を描いた、平井和正のSF長編傑作!


これがたぶん初めて読んだ平井和正SF。小学生の時だったんじゃないかと思う。
アンドロイドやロボットが登場する未来SFなのだが、時代設定が未来なだけで、描かれ方は現代を舞台にしたハードボイルド小説と変わりはない。そう、文体や描写はほとんどハートボイルド・ミステリ小説に近い。主人公の野坂の周辺で起こる事件、人間関係、恋人のケイを巡る周囲との軋轢、そしてお雪の謎。お雪がアンドロイドでなく謎の(人間の)美女で、ロボットやサイボーグ等が登場してこなければ、まさしくハートボイルド・ミステリに他ならないのかもしれない。

しかし、この作品が舞台をアンドロイドやサイボーグの存在する未来に置いている理由は勿論あるのだ。「SFだから」「SFにしたかったから」などということでは全くない。

平井和正は「人間」を書くために、それを必要としたのだ。
そしてそれはまた、単に人間とロボット、アンドロイドの「対比」ということでは、ない。

この長編には原型となった同題の中編がある。プロットもストーリーの骨子も全く同じで、長編化に当たって登場人物が増え、エピソードが膨らまされ、あるいは追加され、長編となっているのだが、水増しとは言えず、寧ろ必要な量が漸く満たされた長編化なのだが、肝心なのは、原型中編では存在しなかった一言が、最後に追加されている点だ。

最初、長編版で読んでいたときには読み流していたサイボーグ猫・ダイの一言なのだが、その言葉が原型には存在していないことを知り、では何故このセリフの追加が必要だったのかを考えてみたとき、大仰なようだが、慄然とした。
テーマがまさしくその一言に集約されていたのだと、初めて気がついたからだ。

冒頭に書いたあらすじ紹介は角川文庫に拠るのだが、「発達しすぎた科学技術の落とし子、お雪が巻き起こす怪事件」というのは、とんでもなく表層的な見方である。
確かに、事件の中心にはお雪がいた……しかし、彼女は何も巻き起こしてなどはいないのだ。
そして……

そして、先程「主人公の野坂」と書き、それはそれで間違いとは言えないはずなのだが、エンディングを読むとき、これはやはり間違った表現なのかもしれないと思う。
野坂の姿など、どこにも、おそらく作者の中にも、存在をやめてしまっているからだ。
そこにいるのは1人のアンドロイドの娘と、サイボーグ猫だけだ。
そして、彼女と彼の小さな会話だけだ。

プロフィール

ピンクル

Author:ピンクル
名前:
おっぺ(カメ)

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